差別と人情について

 

 「勝ち組」「負け組」という言葉が跋扈している今のインターネットだが、僕は正直いかがなものかと思っている。

 

 僕は「実体のない仕事」「生産性のない仕事」(そもそも仕事と呼べるのかどうかすら疑っているが)をしている人が嫌いだ。

 

 早い話が、「アフィリエイトで大儲け」みたいな、いわゆるネットビジネスだとか、「なんたらアドバイザー」みたいな仕事は果たして仕事と呼べるのだろうか。

 

 仕事の定義についてだが、「生きる価値」という記事でも多少触れたが、それは誰か(世間)の役に立つことだと個人的に思う。

 

 早い話が、そうやって利己的でほとんど世の役に立っていない仕事は、排除されるべきだと思っている。彼らよりは(なにかとバカにされがちな)コンビニ店員さんやゴミ収集員さんの方がよほど世間に貢献しているし、立派な仕事だと思う。

 

 こういう話をすると炎上しそうなので怖いのだが、実体のない仕事をしている人が嫌いな理由のひとつに、やたら偉そうで上から目線だということが挙げられる。名前は忘れたが、「底辺とは付き合わない方がいい」と発言して炎上したおっさんも、そういうタイプの人だった。

 

 普段は意識していないだろうが、あなたが歩いている道路は、土木作業員さんが汗水垂らして必死に作ってくれたものだ。コンビニで気軽に買い物ができるのも、コンビニ店員さんのおかげなのだ。しかし日本人はそういう職に就いている人を馬鹿にしがちである。

 

 みんな、それぞれの生活に追われて余裕がないのはわかっている。しかし、他人には他人の事情というものがあり、無下に馬鹿にしたってなんの意味もない。

 

 確かにエリートコースを歩んできた人には、そういう差別意識が多少なりともあるかもしれないが、人は機械ではない。人には情けというものがある。

 

 「情け」・・・つまり他人を思いやる気持ちを失ったら、利己的で下劣極まりない人間になってしまう。僕はそういう大人にはなりたくない。

 

 少し話は変わるが、よく「俺は受験勉強を頑張って〇〇大学に入学したんだ」と自慢する人がいる。それは、相手も高学歴ならば許されるが、学歴のない人に向かって言うのは相手に殴りかかっているのと同じだ。

 

 相手が学歴がないと知っているのなら、学歴の話はしない。お酒の飲めない人には、飲ませることを強要しない。そういった情け・・・つまり他人への思いやりの情がない人は勉強ができるできない以前の問題で、頭が悪いという結論へ導くことができる。

 

 また、最近感じるのは、他人の話(愚痴なども含む)を真剣に聞けない人があまりにも多いということだ。人は基本的に自分の話を聞いて欲しいと思う生き物だ。しかし、自分の話ばかりしていたら、相手は疲れてしまうし、そのコミュニケーションは一方通行だから、長く続くこともない。

 

 あのマザーテレサにしても、彼女は苦しみを抱えつつも、結局孤独ではなかった。人はそこに突破口を見出すしかないのだ。ひとりではなにもできないということである。

 

 人間関係はギブ&テイクだ。もし友人が少ないのであれば、それはあなたが自分よがりになっていて、人としての情けに欠けている可能性は非常に高い。人は苦しい状況に置かれると、どうしても俺が俺がと利己的になってしまうものなのだが、それを改善しない限りは、天涯孤独なまま人生を終えることになってしまう。

 

近況

 

 最近、気が滅入るような事態が続いている。

 

 まず、事故。夜中に運転中、まっすぐな道でなぜかハンドルを切ってしまい、マンション横の植木に突っ込んだ。しかも、そのときに免許証を紛失していたことが判明(つまり免許不携帯)。車は相当なダメージを受けて廃車になることになってしまった。僕は無事だったものの、身内には多大な迷惑を掛けてしまった。

 

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 事故の前後の記憶が曖昧なので、原因はおそらく、今服用している薬の副作用でぼーっとしていたか、軽いめまいを起こしたものと思われる。

 

 また、僕は今とあるビジネスホテルで働いているのだが、向こうの都合でシフトをナイト(夜勤)に入られてしまっている。休憩を入れて計17時間の勤務はさすがに身に堪える。主治医や両親とも相談したところ、「身体を壊すくらいなら、辞めた方がいい」という結論に至った。

 

 辞めれば、当然収入は減るし、いちおう身分は学生とはいえ、なにもしていないのであればニートも同然だ。しかし、就活とそれに向けた資格試験の勉強もしなければならないので、致し方のない部分はあるのかもしれない。

 

 とりあえずアルバイトは、もう少しライト(?)なものを探してみようと思う。この際だから派遣でも構わない。今後は就活に重きを置いて頑張っていこうと思う。

 

死にたいという気持ち

 

 またまた暗い話になってしまうが、ご容赦願いたい。

 

 突然だが、あなたは「死にたい」と思ったことがあるだろうか。大半の人は、「ないよw」と答えるかもしれない。しかし、1度でも死にたいと思うことは正常で、真摯に生きていれば、誰だって死にたいと思うような状況に当たるものだ。

 

 むしろ、1度も「死にたい」と思ったことがない人は、よほど環境に恵まれているのか、あるいは自分自身を向上させようと努力していない怠惰な人だ。

 

 だから、あなたが死にたいと思うのは、ある意味まっとうに生きているからであって、まったくおかしいことでないと断言する。

 

 死にたいという気持ちは、「絶望」とも言い換えられるが、絶望とは大いなる志や高い向上心を持つ人だけが抱える特別な感情で、怠けている人が絶望を感じることなどない。

 

 死にたいと思って、実際に衝動的に自殺してしまう人は多いが、ほとんどの場合、なんとか今の苦しい現状を打破しようと頑張っている人が、ふとした瞬間に心が折れて自殺に至ってしまうものだと思っている。

 

 仕事を頑張っているのに、なかなか成績が伸びない。恋愛で一生懸命尽くしてきた人に、フラれてしまった。そういったときに、自殺するリスクは高まる。

 

 だから、昨日のブログにも書いたように、万が一そういう事態に陥ったときのために、自分の心の支えとなるものが必要なのだ。それを一生懸命探さなくてはならない。

 

 僕の身の上話になってしまうが、10代で鬱になり、さらに20代でパニック障害まで発症。病気でアルバイトすらままならなくなり、大学も中退。絶望し、何度も自殺未遂をしては親を泣かせた。それでも、なんとか生きたいと願い、努力してここまで立ち直してきた。

 

 しかし、順風満帆な人生とは無縁なのか。今度は金銭的な問題で、またどん底に近いところまで堕ちてしまっている。それでも、「俺はここまで何とかやってきたんだ。だからこれからもなんとかやってみせる」という自信がある。それに、僕が死ねば、親は当然、弟も親戚も悲しむ。だから僕は、口では「死にたい」とこぼしても、実際に死ぬつもりはない。

 

 まったく人間は冷たいもので、どん底に堕ちてしまった人をいつまでも面倒見てくれることはほとんどない。最初は心配してくれるかもしれないが、あなたがそのままでいれば愛想を尽かしてそのうち離れて行ってしまう。人間とは冷たい生き物なのだ。いや、皆自分のことで精一杯なのである。

 

 人間は冷たい、という話をしたが、しかし耐えている人や頑張っている人は、どこかで誰かが見てくれている。だから、誰かが助けてくれる可能性は残されている。 

 

 自暴自棄になって自殺する前に、今の自分にできることを精一杯こなし、努力するのだ。「明けない夜はない」なんて胡散臭い言葉は使いたくないが、「世界は苦難に満ちているが、それを乗り越えた事例にも満ちている」というヘレン・ケラーの言葉にもあるように、苦難の中にも必ずどこかに突破口がある。

 

 個人的には、それはすべてのプライドをかなぐり捨ててゼロスタートすることだと思っているが、それができる覚悟があるのであれば、あなたはまだ少なくとも自殺を図るような段階ではないのだ。

 

自分の支えとなるもの

 

 生きていれば、誰でも追いつめられることがある。それはお金や仕事のことかもしれないし、恋愛や結婚のことかもしれないし、とにかく現代社会にはもはや「安泰」なんてものはないと思っている。誰でもどん底に堕ちるリスクを背負って生きている。

 

 そんなときに備えて、なんらかの支えが必要になる。

 

 よくあるのが、他人の存在を支えにしているケースだ。

 

 家族や友人、恋人が支えという人は多い。しかし、他人は裏切る。または、そのうちいなくなってしまう。

 

 そもそも、他人を支えにするということは、その相手にプレッシャーを与えるということでもある。例えば、親が子供に「立派になって欲しい」と期待して、熱心に教育することを心の支えにしていることがよくあるが、これが非常によろしくない。子供にとっては相当なプレッシャーになる。

 

 少し話は逸れるが、2008年に秋葉原で無差別殺傷事件を起こした加藤智大の母親は教育熱心だったということで知られている。加藤は青森高校という偏差値の高い公立高校から、わざわざ短大へ進学している。ここで僕が思うのは、この選択は親へのアンチテーゼだったのではないかということだ。もともと優秀だった加藤は、(言葉が悪いが)「落ちぶれる」つまり自滅という道を自ら選択し、自分の思う通りにさせてくれなかった親への復讐を図ったのだ。

 

 これはあくまで僕の勝手な推測なので真実かどうかはわからない。しかし、他人を支えにする、他人に期待するという行為が、ときに悲劇を生むのは事実だ。

 

 だから、なにか自分の支えを求めるときには、人ではなくモノを選ぶのがベストだ。

 

 今、僕の手元には強力な栄養ドリンクがあり、飲むと気分が良くなる薬(覚せい剤など違法なものではないよ)もある。そしてスマホには楽しかったときの飲み会の写真などが保存してあり、自分の大好きな作家さんの著書も揃えてある。

 

 モノは裏切らないし、捨てない限りはなくなってしまうこともない。

 

 そのモノには、当然ながらお金も含まれる。特に欲しい物がなく使う用途がなくとも、お金があれば精神的にかなりの余裕が生まれる。だから、仕事は頑張らないといけない。

 

 余談になるが、僕は愛煙家なので、将来タバコがこの世から消えてしまうのではないかと危惧している。ギャンブルも好きだが、最近になり規制が厳しくなってきた。アルコールに弱い体質だから、お酒に逃げることもできない。それが悩みのひとつでもある。

 

 国は古来から庶民の支えとなってきたものをどんどん規制し、奪っていくのだが、なぜそうするのかが自分にはよく理解できない。

 

 最近、あまりにも正義を振りかざす人が多いように思う。しかし、そうすればありとあらゆるものが制限されるようになる。個々の趣味趣向はそれぞれ違うし、それぞれにメリットとデメリットがあり、完璧で万人に受け入れられるものなど、ほとんどない。そんなに正義を振りかざしていたら、ありとあらゆるものが規制され、多くの庶民は余裕を失い結果的には自分で自分の首を絞めることになる。その悪循環に陥る理屈がわからないのだろうか。

 

 話がだいぶ逸れてしまったが、なるべく物質的で、かつ恒常的なものを自分の支えとするのだ。

 

 僕は飲めないが、少なくともお酒はこの世から規制されなくなることは(この先暫くは)ないだろうし、薬にしても、これでもかというほど数多くの製薬会社によって生産され続けているから、ときにはそれらに頼るのも良いかもしれない。いくらネットが普及して出版不況と言われている時代とはいえ、本もなくなる可能性は低い。お気に入りの本、愛読書のひとつでも必死に探して、見つけて欲しい。

 

 とにかく、モノなんだ。身近で、かつこの世から消える可能性の低いモノを支えにして、そしてお金を稼ぐために、必死に仕事を頑張るんだ(これは自分に向けた言葉でもある)。

 

やる気

 

 やる気を出すのは非常に難しい。そもそも、「やる気」という言葉自体が妙だなと思っている。自分が本当に好きなことをしているときには、やる気なんか出さなくたって自然とやってのけている。たとえば大好きな趣味がそれに当たるだろう。僕はブックオフで適当な本を買って読むのが趣味だが、そのときにいちいちやる気など感じていない。

 

 やる気が必要になるのは基本的に嫌で面倒なことをするときだ。この世でやらなければいけないこと・・・その最もたるものが仕事だろうが、仕事なんてものは大抵嫌で、面倒なものである。しかし、嫌だろうがなんだろうがやらなければいけないことはやらざるを得ない。

 

 やる気という言葉自体が妙だという話を冒頭でしたが、人が本気で行動する原動力になるのは、やる気というよりも「やらざるを得ない危機的な状況」なのである。

 

 僕は去年、まだ学生という身で多額の借金を背負い、さらに母親が鬱病になって、完全にドン詰まってしまった。それまでは正直、あらゆる面で親に頼っていた部分が大きく、アルバイトにしても単純作業など気楽なものしかやって来なかったが、街金のヤクザのような怖いおじさんからお金を借りてしまえば、もはや選択の余地などない。そして、自分としては最もやりたくなかった接客業に仕方なく就いたのだが、辛いのは最初だけで、3か月もすれば慣れてしまった。

 

 追いつめられないと、人は動かないし、現状を打破することもないのだ。

 

 僕はわりと自分で自分を追いつめるタイプだ。病気持ちというのもあるが、仕事中に意味もなくつらくなると、出血するほど唇を噛んだり、最悪の場合「トイレに行きます」と言ってミニカッターで太ももを切りつける。ある種の自傷行為なのだが「仕事のつらさに耐える」という目的のはっきりとした行為なので、自己責任でやるぶんにはさほど問題ではないと思っている。

 

 他にも、自分を追いつめる方法はたくさんある。他人に苦言をもらうのが一番手っ取り早いかもしれない。苦言とは悪口とも言える。誰でも1度は悪口を言われたことがあると思うが「あの人はこうでこうで・・・酷いやつだ」と言われたときに、凹んだままではなく、それを怒りか悔しさに変換するのだ。

 

 受験生として予備校に通っていたころ、早稲田大学の優秀なチューター(講師)に「あんなやつ(僕)が同期で騒いでいたらぶん殴っていたね」などと散々バカにされ、悔しさのあまり3日3晩寝ずに勉強したことがある。その甲斐があってか、いちおう第1志望の大学に合格した。

 

 ただ、日本には本音と建前という文化があるので、どうしても他人から苦言を呈される場面は多くはない。その場合は、自分からへり下って、できれば目上の偉い人に「自分のどこがダメなのか教えて下さい」と頼み込むのもアリだろう。以前とある作家さんの個人コンサルを受けた際、「印象が暗い」という苦言をいただいた。それ以来、意識的に口角を上げ、声のトーンも上げるよう努力している。

 

 苦しい状況や苦言を前向きに捉えるのはなかなか難しいものの、筋トレをして筋肉をつけようと思えば必ず痛いように、人が成長するためには、必ずある意味で痛い目に遭わないといけない。

 

男の挫折と女性

 

 僕は、特に重い病気をしたこともなく、挫折をしたこともなく、ただノリと勢いで生きている人とはわかり合えないし、わかり合うつもりもない。

 

 そういう人は、他人の気持ちがわからないのだ。

 

 「自分は大丈夫だから、他人も大丈夫だろう」という考え方をするから、例えば新歓でお酒が飲めない人にも無理矢理お酒を飲ませて、急性アルコール中毒で相手を死なせてしまったりする。

 

 「お前は暗い男だな」って?別に、そう思われてもまったく構わない。こっちだって、順風満帆な人生を送っている人が羨ましく思わないと言えば嘘になるが、深い挫折を経験して、かつそれを乗り越えた人は、なにより懐が深い。そして、ひとつひとつの発言の重みが違う。

 

 男の人生とは、こうだ。夢を見る。夢を追う。そして挫折する。それでもまた夢を見る。また挫折する。その繰り返しだ。

 

 しかし、今の時代の女性は、そういう男をあまり好まない。ネット上には「陰キャ」なんていうスラングがあるが、ただただ「暗い」という印象を持たれて、即、恋愛対象外にされてしまう。

 

 なぜか女性は、わざわざ自分が不幸になるような男と付き合う傾向がある。毎日ゲームやパチンコで遊んでばかりの、ヒモ男やDV男と付き合って、セックスをする。「この人には私しかいない」などと意味不明なことを口にする。はっきり言って知能が低いのである。貞操観念もクソもないのだ。

 

 さまざまな人生の困難と闘いながらも、孤独で、深い悲しみを纏った男が「暗い」というイメージを持たれて疎外され、ただ生まれつき多少顔がかっこいいだけの男が女性に好かれるという現実があり、はっきり言って狂っていると言わざるを得ない。

 

 ここまでの話の流れだと、僕は今どき男尊女卑の最低な人間だと思われてしまうかもしれないが、実はそうでもない。

 

 僕は以前に、お金に困っている女子高校生に現金を手渡したことがある。その子はとても謙虚で、僕が食事代は奢るよと言っても「いいえ、私も出します」と財布を出した。その子はきっと幸せになれると思う。

 

 その一方で、僕のことを昔で言うメッシー君のように扱ってきた女性もいた。とっくに30歳を過ぎていて、結婚して子供までいるのに不倫して適当な男と遊んでいるような人だった。そういう風に甘えて人生を舐め腐っている女性が嫌いなのであって、僕は別に女性不信だとか男尊女卑というわけではない。

 

 謙虚であるということはとても大事だ。こんな偉そうなことを言っている僕も、それなりに若くて綺麗な女性と会うときには、食事代くらいはなるべく全額払うようにしているし、ファッションにも気を遣う。そうしないと単純にお互いの価値が釣り合わないからである。

 

 話がまとまらなくなってしまったが、女性には、なるべく苦労している男に優しく接してあげて欲しいと思う。下手したら、その男の命さえ救えるかもしれないのだ。2008年、秋葉原で無差別殺人を犯した加藤智大は、女性にまったく相手にされないことに対して絶望していた。もし彼に彼女がいたら、そこまでの凶行には及ばなかっただろう。

 

 人と人とは助け合いだ。こういう時代だからこそ、男と女のそれぞれの役割について、一度熟考してみてはどうだろうか。

 

偽善

 

 「しない善よりする偽善」なんていうスラングがあるが、僕は中途半端な善意はかえって人を苦しめると思っている。

 

 他人を助けるときには、まず自分が強くなければならない。そうでないと、最初は相手を助けられるかもしれないが、途中で抱えきれなくなり結果的には突き放つことになってしまう。古傷を抉るようなもので、その人の傷はより深いものになってしまう。

 

 「俺は助けてやったんだから、俺にもこうしろ」という態度を取るのも良くない。そんなものはただの恩着せである。 

 

 本来、善とは無償、つまり愛なんだ。

 

 恋と愛の違いは、見返りを求める気持ちがあるかないかだ。恋とはしょせん、打算で成り立っている。それは中学生同士の恋愛でもわかる。クラスの可愛い女の子が、ブサイクで、勉強も運動もできない男子と付き合うだろうか。そんなことはないでしょう。

 

 一方、愛は見返りを求めない。「この人のためなら自分が犠牲になっても構わない」という気持ちだ。一般的な親の持つ子供への愛とはこういった類のものだろう。子供に幸せになって欲しい一心で、汗水垂らして働く。それは血の繋がりがあるから成せる業でもある。

 

 善の話に戻るが、困っているとは言え、しょせん他人でしかない人間の悩みを、すべて抱え込み解決させてあげられる覚悟のある人は、果たしてどれほどいるだろうか。

 

 ほとんどの場合、他人に助けてもらうときには見返りを要求されるものだ。その最もたるものが医者だ。人の命を助ける医者だって、無償で助けてくれるわけではない。助けてもらう代償として我々は医療費を支払っている。

 

 これと関連した話で、「タダ」のものには、基本的に価値がない。それは昨今のアフィリエイトブログを見ていればよくわかる。どこの誰が書いたのかわからない、当たり障りのない記事ばかりが検索結果に引っかかる。

 

 本当に価値のあるものを求めるときには、なんらかの対価、具体的にはお金を払わないといけないのだ。

 

 やや強引だが、タダのものに飛びつくということは、あなたの価値もタダという結論に導くこともできる。タダで得られるもの、つまり価値のないものに満足できてしまうということなのだから、当然そういうことになってしまう。

 

 僕は以前に、安い美容外科院で手術を受けたことがある。通常は10万円以上かかるものを、5万円で受けたのだ。手術は当然のごとく失敗し、傷跡だけが残ってしまった。とても後悔している。

 

 よほど信頼できる相手でない限り、安く(または、タダに等しく)助けてもらうことなどできないし、その考え自体がそもそも甘いのである。

 

 逆に、自分が誰か他人を助けるときにも、注意しないといけない。本当に、心の底からその人を助けたいのか。あなたは心のどこかで相手に見返りを求めていないだろうか。真剣に疑ってかかるべきだ。もしそうした気持ちがあるのだとしたら、ただの偽善だ。それは相手を不幸にするということだ。